躁×鬱

どうしようもないわたし

読書記録1 「石の思ひ」

 この頃自分の考えを どこかに著したい衝動がひどい。要は自分語りがしたいのだ。こんな考えも3日坊主で終わる気もしながら、読んだ本についてただ感想を述べていく試みをしてみる。

 

 本日読んだのは坂口安吾の『石の思ひ』である。石とは中国古典の『紅楼夢』から来ているらしい。しかし、私はこの作品について何一つ知らないのでかなりの誤読をしている可能性が高い。まぁ、私は作者主体の読書を否定している立場なので気にしていないのだが、正しい解釈を求める読者にとっては詭弁にしか思えないであろうことを付しておく。

 

 さて、この本は坂口安吾が自身の少年時代を描いた短編小説である。主に家族関係の中で育まれた切なさ・悲しみについて述べられている。父からの無関心、母からの憎しみを受けて育った幼少期を振り返り、自分と父との対比と母との和解を通じて自分と実家との関わりについて作者の考えが綴られている。なかなかに過酷で現代の私達では想像し難い家族像ではあるが、巧みな言語感覚によってそれらが生んだ情緒を私達に届けてくれている。

 

 まず父との対比だが、この点に関しては「悲しみ」という言葉が意識されている。

私は六ツの年にもう幼稚園をサボって遊んでいて道が分らなくなり道を当てどなくさまよっていたことがあった。

 この体験によって生じたものが坂口にとっての「悲しみ」であり、その「悲しみ」を生涯背負ってきた自分と、成長過程で捨て去ってしまった父との対比が成り立っている。この「悲しみ」とは、カオスを求めてしまい不安定なものを求めてしまうが、それに飲み込まれながら生きる能力を持たないアンビバレンスによって生まれるものなのだと私は思う。坂口の父は、この「悲しみ」を捨て去った故に息子に対し無関心を貫き、自分の世界に閉じこもってしまった。カオスをもたらす他者とのつながりを断ち切ったのである。

 また、この「悲しみ」は、「自己破壊」の快楽と密接に関わっているのではないだろうか。カオスというのは自分を破壊しうる存在である。そんなカオスを求める=自己破壊を求めるのが坂口安吾であり、カオスの排除=自己破壊を防ぎたいのが父である。私は自己破壊を求めるものである。自分がなにか失敗したり、他者から拒絶を受けると安心感をいだき、逆に他者から受け入れられたり、なにか成功体験をしてしまうとこんなのは自分でないと不安にかられる。そういった意味では私は「悲しみ」を持っているのかもしれない。

 

 最後に母との和解についてである。

母と私はやがて二十年をすぎてのち、家族のうちで最も親しい母と子に変ったのだ。私が母の立場に理解を持ちうる年齢に達したとき、母は私の気質を理解した。

 幼少期は母から虐待を受けていた坂口が大人になったことで母の抱える事情を理解し、晴れて母と仲良くなれたというなんとも穆穆とした話である。これに対し私は、虐待をしていた母との和解は無理なものだと決めつけていた。しかし、母との対話から逃げている自分に気がつくことができた。まぁ、フロイトラカン精神分析に照らし合わせてみれば、坂口は「去勢」された根本を理解することができたが、私の場合はそれがない。いや、「去勢」の原因を母との対話で明らかにすればよいのかもしれないが、そんな気力はないなぁ。。。

 

まとめ後日削除