躁×鬱

どうしようもないわたし

読書記録5『駈込み訴え(ロウワー考察)』太宰治

 

はじめに

 やはり太宰から抜け出すことはできない。そう思わせるには充分な作品だった。わずか30分足らずで読んだにも関わらず、その何十倍もの時間をこの作品に対する思索で消費している。

 この物語はタイトル通り何者かが駆け込んで来て自分の尊敬していた人の悪行を訴えていくものだ。ネタバレになるが、駆け込み訴えているのはイスカリオテのユダ(以下ユダと表記)で、訴えられているのはイエスである。これだけだと難しい話のように感じてしまうかもしれないが、この話の主軸はユダの愛である。イエスを愛しすぎた故に彼を裏切るしかなかったユダの苦悩を太宰が再解釈し書いたものなのだ。

 本記事では「駈込み訴え」のあらすじを記述した後、本作品をベースにした楽曲「ロウワー」の考察を試みる。

 

あらすじ

 先程にも述べた通り、この話はユダ目線でイエスへの裏切りを書いたものである。そもそも、ユダの裏切りはキリスト教を客観的に見ることのできる我々日本人の感性からみると至極当然なのである。というのも4つの福音書を参照すると2人の会話シーンはとてつもなく少ない。というよりワンシーンしか無く、しかもその会話ではユダはイエス咎められている。後述するベタニヤのマリアのエピソードである。明智光秀もびっくりである。キリスト教の価値観からすると無条件にイエスを愛しなさいということなのだろうが…

 話の内容に入ろう。ユダが訴えながら過去回想をするのだが、そのエピソードは以下のように分けられる。

「2人きりの語らい」→「ベタニヤのマリア」→「イスラエル入城」

 はじめの2人きりの語らいは実際の聖書にはないものであるが、ユダがイエスを愛していることを示すために太宰がでっちあげたものと私は解釈した。ここで先ほど2人の会話がほとんどないことを確認しておきたい。本作ではそんな2人の会話が加筆されているのだが「あとにも先にも、あの人と、しんみりお話できたのは、そのとき一度だけ」とも独白も添えられている。ユダが思うようにイエスと関係性を築くことができなかったことがうかがえる。ここでの話の内容はさほど重要でないので次。

 

 次にベタニヤのマリア(以下「マリア」と表記するか迷ったのだが、聖母マリアマグダラのマリアと混同すると聖書解釈に大きな支障をきたすため「ベタニヤのマリア」と略さず書いていく)だが、最も重要な部分だろう。ベタニヤのマリアがものすごく高価な油をイエスにかけてしまうのである。ユダは、その油を売った金で貧しい人々を救うことができるのに、と憤慨する。ここでイエスはベタニヤのマリアをかばうのである。自分が死ぬための準備をしてくれたのだと。

 当時の中東では実際にあった習慣として埋葬するときに足に油を塗ることがあった。イエスは自分の死期を悟っていたため、ベタニヤのマリアもそれについて理解のある人間なのだと認めたのである。また、キリスト教では救世主のことを「メシア」と呼ぶ。元々の意味は「油をかけられた人」である。これは旧約聖書で民を導くものがそのあかしとして油を頭に塗った話から来ている。そこから彼女はイエスに対してこの上ない尊敬の意を表したと解釈することもできる。

 聖書ではここでベタニヤのマリアの真意を汲み取れなかったユダがイエスに叱責されて終わる。しかし太宰はユダ目線の話を展開する。なんとイエスが眉目秀麗なベタニヤのマリアに恋をしていたからかばっていたのだという。

私は、ひとの恥辱となるような感情をぎわけるのが、生れつき巧みな男であります。自分でもそれを下品な嗅覚きゅうかくだと思い、いやでありますが、ちらと一目見ただけで、人の弱点を、あやまたず見届けてしまう鋭敏の才能を持って居ります。あの人が、たとえ微弱にでも、あの無学の百姓女に、特別の感情を動かしたということは、やっぱり間違いありません。

 主の預言者が人間の娘に恋をするなどあってはならない。ユダの感じていた絶望は計り知れない。イエスに自分の考えが認められなかったことに対する不満、イエスが恋愛感情に揺れていることへの呆れなど様々な負の感情がユダのなかに巡っていたことは想像に難くない。

 

 イスラエル入城に関しては、ユダの裏切られポイントを引用して終わろう。宮に入り商人を追い出した場面のユダの感想だ。

所詮しょせんはあの人の、幼い強がりにちがいない。あの人の信仰とやらでもって、万事成らざるは無しという気概のほどを、人々に見せたかったのに違いないのです。それにしても、縄の鞭を振りあげて、無力な商人を追い廻したりなんかして、なんて、まあ、けちな強がりなんでしょう。あなたに出来る精一ぱいの反抗は、たったそれだけなのですか、鳩売りの腰掛けを蹴散けちらすだけのことなのですか、と私は憫笑びんしょうしておたずねしてみたいとさえ思いました。もはやこの人は駄目なのです。

 ここでユダはイエスに見切りをつけ、愛したイエスがこれ以上情けない姿を見せる前に殺してあげようと思い立ち銀貨30枚を受け取るところで話は終わる。

 

 なお実際の聖書の内容がわかると本作をより楽しめるため、記事の最後に聖書の該当部分を書き出しておくので、興味があれば是非読んでいただきたい。

 

ロウワー解釈

 最後にぬゆり氏の楽曲「ロウワー」の考察を行おう。

www.youtube.com

 youtoubeのコメント欄を見るとわかるが「駈込み訴え」が元ネタの曲となっている。きちんとした考察は以下の記事を読むといいだろう。

note.com

 

 私はこの記事で書かれていない部分と解釈の異なる部分を記述してみようと思う。

 駈込み訴えとの共通点

 ロウワーの2番は以下の歌詞から始まる。

平穏とは消耗を以て代わりに成す

実際はどうも変わりはなく

享楽とは嘘で成る

「綻ぶ前にここを出ていこうか」

と都合の良い願いを同じ様に同じ様に呟く

 この歌詞は「駈込み訴え」の次の場面を読むと理解できるだろう。

あの人は、私のこんな隠れた日々の苦労をも知らぬ振りして、いつでも大変な贅沢ぜいたくを言い、五つのパンと魚が二つ在るきりの時でさえ、目前の大群集みなに食物を与えよ、などと無理難題を言いつけなさって、私は陰で実に苦しいやり繰りをして、どうやら、その命じられた食いものを、まあ、買い調えることが出来るのです。わば、私はあの人の奇蹟の手伝いを、危い手品の助手を、これまで幾度となく勤めて来たのだ。

 ユダはイエス一行の金銭管理を担当していた。そんな彼は「消耗を以て」イエスの起こす奇跡を演出していたのだ。歌詞の「綻ぶ前に~」は、奇跡のトリックが皆にバレる前に2人だけの逃避行に堕ちてはくれないかというユダの願望が現れたものと考えられる。

 

 ユダの接吻

 聖書ではイエスが捕らえられる場面で、ユダはイエスに向かって接吻をする。これはユダヤの司祭に対し、誰がイエスなのかを知らせる合図である。イエスは自分に相対し向かってきたユダが何をしようとしているのか瞬時に察し、接吻を受け入れそのまま磔になる。

ジョット・ディ・ボンドーネ〈ユダの接吻〉

 ロウワーでも同様の場面が最後に描かれている。

 

 最後のサビの場面だ。三枚目の構図はユダの接吻をかなり意識していることがわかる。ここで絵画との共通点を注意深く観察していくと2つの違和感がある。

 あえて2つ目の方を先に述べよう。なんとロウワーでは接吻をしていないのである。4枚目の画像を見ていただくとわかるだろう。聖書通りに話が進むのなら、ここで接吻をしていないとおかしいのだが、ロウワーではユダが「正しくして」と訴えている。そしてこれは楽曲の最後の歌詞である。つまりユダが最後にした行いは接吻ではなく、正しい道への救済を訴えることだったのである。

 これをふまえて1つ目の違和感に触れよう。その違和感が見られるのは画像2枚目である。2人の背後にヘイローが描かれていることだ。ロウワーのMVを注意深く見ていくとわかるのだが、イエスの背後には何度がヘイローが描かれているのに対し、ユダの背後に描かれているのはこの最後の場面だけである。


 〈ユダの接吻〉を見てもわかるが、普通ユダを描いた絵画で彼の背後にはヘイローは現れない。彼が聖人ではないからだ。

シモン・フョードロヴィチ・ウシャコフ〈最後の晩餐〉

フアン・デ・フアネス〈最後の晩餐〉

 それなのに「ロウワー」の最後にはユダの背後にもヘイローが存在している。わざわざユダに重なる位置に存在しているということは何らかの意図があると見て良いはずだ。その意図は一体何なのか。それを説明するのが先に述べた2つ目の違和感、接吻をせずに正しさをユダが求めていることだ。

 愛に溺れ、師を裏切ったユダだが正しくあろうとする意志を捨てなかった。そんな彼女に神は祝福を与えたのだろう。ユダの正しくありたいという思いの尊さは言語で表すにはもったいない。一つの楽曲として感性に訴えかけたぬゆり氏の製作力にひたすら脱帽するしかない。