躁×鬱

どうしようもないわたし

プロポ「自己責任」

 言葉の解釈が他人と違うなと感じることが多々ある。「他力本願」ってそんなに悪いことなのか?これって元々鎌倉時代の仏教の考え方で、大衆に受け入れられたはずなのに、なんで悪いことのようになっているんだろう。自分の限界値を受け入れて、それを埋めるために他者を必要とするって悪いどころかものすごく健全なのではないだろうか。

 

 リチャード・ローティーはみんなが連帯するために共通言語という概念を提唱した。簡単に言うなら、本来の言葉の意味より連帯する仲間内で通用する意味を重要視しようって感じ。この共通言語に「他力本願」を持ち込みたい。一人で自滅するくらいなら僕のことを頼ってほしいと思うし、逆にもっと周りの人のことを頼りたい。一般的に悪いとみなされれいる「他力本願」の語彙を、僕の身内では良い意味として使いたい。

 

 日本人がみんな宗教を信じていることが当たり前になったらと思う。自分の小ささを自覚して、もっと神様に頼ればいいのに。そうすれば自分ひとりで抱え込もうとする人も減るんじゃないだろうか。自力で何でもしようとするから病んだ人は自分のことを傷つけて解決しようとする。もっと他者を傷つけても許されるべきだ。

 

 メンヘラを1つの文化にした南条あやはちゃんとした自己愛を持っていたし、その自己愛を持ってして自分一人では何もできないことをわかっていたから大衆に自分の考えていることを訴えていたんだよ。彼女の真似事だけして本質を理解していない人ばっか。隠れてやる自傷行為南条あやのマネをしているようで全然そんなことない。メンヘラたちで共通言語を作るための材料にしかなっていない。自己責任論を加速させる共通言語なんてなくなってしまえ。