躁×鬱

どうしようもないわたし

読書記録3『読んでいない本について堂々と語る方法』

 全く更新をしていないが、決して本を読んでいないわけではない。しかし、あまりにも読んでいない本が多すぎることによる後ろめたさが足を引っ張り、読んだ本について十分に語る自信がなかった。その本について語るためには、その本についての解像度を上げる別の本を読み、それらすべての本について語らなければならないと考えていたからである。

 

 本棚を眺めていると、こんな私にぴったりな本があった。ピエール・バイヤール著、大浦康介訳『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫)だ。読書量の少なさが、「本について語らないこと」に繋がらないことを過去の自分は学んだはずだった。この本を読んだのは随分前だが、これからの本への向き合い方を考えるため、この本の内容の回想を試みる。

 

 

 この本の大前提としてあるのが「本について語ることは不可能である」という命題である。本のタイトルと矛盾しているように思えるが、この考え方がなかなかに面白い。

 

 

 本書では、ある人類学者がアフリカの民族ティヴ族に『ハムレット』を語って聞かせた際のエピソードが紹介されている。『ハムレット』は、三人の哨の前に亡き先王ハムレットの亡霊が出現するところから始まるのだが、ティヴ族はこの場面が全く理解できないというのである。これは一体なぜなのか。ティヴ族には亡霊という概念はなく、死んだものが姿を表すことが想像できないためである。

 

 『ハムレット』について語る際、我々は亡霊の存在を受け入れ先王と王子ハムレットの親子愛について問題なく語ることができるが、亡霊の概念を持ち合わせないものは突如現れた先王の正体についてあれこれ考察を語り合うことになる。このエピソードから分かるのは、本について語ることは我々の観念体型を通してからのみ行われるということである。

 これ以外にも『ハムレット』を読んだ際の、ティヴ族と我々の間にあるズレが本書の中では紹介されているがここではこの一例にとどめておく。

 

 本について語るということが観念体型に依拠するということは、読んでいない本について語ることのできる可能性を我々に示してくれる。

教養ある、好奇心旺盛な人間なら、本を開く前から、タイトルやカバーにちょっと目をやるだけで、さまざまなイメージや印象が沸き起こるはずである。そしてそれらのイメージや印象は、一般的教養がもたらす書物全般についての知識に助けられて、その本についての最初の見解に変わるだろう。ーピエール・バイヤール著大浦康介訳『読んでいない本について堂々と語る方法』ちくま学芸文庫p36

 我々の観念体型を構成する教養によって本について語ることが可能になり、いわんや読んでいない本についてもである。

 

 

 驚くべきことにこの本の中で引用される数々の本は、筆者が読んでいない本である。筆者は、読んでいない本について堂々と語り『読んでいない本について堂々と語る方法』を書き上げたのである。このことを可能にしたのは筆者の教養である。

 

 同じようなことを私も過去に行った。前回の読書記録で引用した柄谷行人の書籍は一冊も読んだことがないのである。彼の文学評論が日本文学においてどういった立ち位置にあるのかを理解するだけの教養が私にあり、その教養を元に語ることができたのである。

 

 

 では、教養を完成させないと語ることができないのか。もしそうなのであれば私は今後も自身の寡聞さに恐縮し永遠にブログの更新をすることはできないだろう。読んでいない本について語ることはできないままである。バイヤールはこのような問題を解決するべく、この本の最後に読んでいない本について語る際の心構えを示してくれている。

読んでいない本について(中略)話したければ、欠陥なき教養という重苦しいイメージから自分を開放するべきである。ーピエール・バイヤール著大浦康介訳『読んでいない本について堂々と語る方法』ちくま学芸文庫p200

 心構えの章の小タイトルは以下の4つである。「気後れしない」「自分の考えを押し付ける」「自分をでっち上げる」「自分自身について語る」。先の引用と、このタイトルから私は次のように解釈した。本について語る際に教養は必須だが、その教養に終わりはないのだから現状追認をし、暫定的な自己語りで帰着せよ、、と。

 

 

 最初に確認したが本そのものについて語ることは不可能で、我々が本について語っていると思いこんでいる行為は観念体型を通じて語っているに過ぎないのであった。観念というのは人それぞれ違ったものを持っている。それならば、本について語ることは今の私自身の観念を語ること、自分語りをすることと同義なのだ。下手に教養を身に着けてから語ろうとするのではなく、その時の私が持ちうる教養・観念・人格諸々を動員して語っていくことは何も悪くはないのだから、もっと本を読んだときの考察を書いていけたらと思う。