読書が好きです。
出会った人にまず伝えるのはこれだ。
僕としては、読書っていう遊びにハマってるんです。ってことを相手に感じ取ってほしいのだけれども、大抵の人は「勉強家だ」「高尚な趣味だ」などどいった感想を持ってしまう。
このことについての考えを軽くまとめたい。
以下の考察を述べるにはまだ勉強不足な点は多々あるのでかなり僕の理念型による理論だと思っていただきたい。
そもそもなのだが、主観的現象を二項対立で考えている人が僕の周りには多いと思う。
では読書はどういった二項対立で捉えられているのか。
これはデュルケームのいう「聖ー俗モデル」だろう。これで判断するとしたら読書は「聖」の領域に入れられる可能性が高い。(始皇帝にとっての儒学、冷戦期の東側陣営にとっての相対性理論などの、いわゆる反動的なもの、、は除く)。
ここで、ある程度人文知をかじったものであればこれが古い理論であることは一目瞭然だろう。
もしあなたが読書家なら、ヘッセの『デミアン』を、社会学や哲学その他の文系科目を学んだことがあるならばホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を思い浮かべてほしい。
どうだろうか。人間の営みを「聖ー俗」の二値論理で物事を判断することが明らかにダミングダウンされた視点であることがわかるだろう。
ここで、この論に「ドクサ―エピステーメー」の二項対立を持ち込んで述べることも「聖ー俗」と本質的に同じであることは了解されたい。
浅田彰『構造と力』から引用するのがわかりやすいだろう。
半ばそれと意識しつつ日常生活のドクサへの埋没を択ぶのでもなく、象牙の塔にこもって大上段にエピステーメーをふりかざすのでもなく、それもまたドクサであると意識しながら知と戯れることが問題なのである。
浅田彰『構造と力』(中公文庫版)p20
同書のもっとも有名な「シラケつつノリ、ノリつつシラケること」(p19)これが私にとっての読書である。読書について、ドクサ的なノリのみを意味づけるつもりはないとうことだ。
ここまで『構造と力』に頼りきりで論を進めてきた。
哲学が好きな人はここで、私が〈読書という営みをどういった位置づけにしたいのか〉勘づいていることだろう。
私にとって読書とは「遊」である。
ここで言う「遊」はホイジンガのそれとは異なる。確認しておくと、ホイジンガは「まず遊びを基本行為として、そこから聖なる行為が発生したと考えた」と考えている。
参考:https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/~m-ikeda/sub6.html(2024年5月2日閲覧)
ホイジンガの論では遊びはデュルケムの考える俗のパラフレーズに過ぎないのだ。
多少ややこしい流れになってしまったが、私は読書の位置づけにあたってカイヨワの「聖ー遊ー俗」モデルを元に考えたい。、、、、
カイヨワについてなんの知識もないので今のところはここで終わり。
哲学ではセットになって語られがちなデュルケム、ホイジンガ、カイヨワの三者を比較できないということは、私を知識人と見ている人からは噴飯ものだろう。
私にとっての読書がたいして知的な営みではないことがここでわかっていただければ本望である。ってな感じですわ。