躁×鬱

どうしようもないわたし

読書記録2 伊藤整『文学入門』(&メンヘラ文化に対する考察)

 

 前回書いた通り、大して理解もしていない書籍の読書記録を記してみる。

 今回は講談社文芸文庫出版、伊藤整の『改訂文学入門』である。戦前の文学について学べる書籍の中では知名度・評価ともに群を抜いているのではないだろうか。

 伊藤整はD・Hローレンス著『チャタレイ夫人の恋人』を翻訳し猥褻物頒布罪に問われたことが有名で澁澤龍彦との共通性を感じる人も多いだろう。しかし、澁澤龍彦は美学・哲学の観点から性の悪徳を論じたのに対し、今回の話題である伊藤整は文学乃至文学が積み上げてきた思想に重きを置き文学書評をしてきた側面がある。

 

 さて、本書籍は神話から戦前の文学まで、人類が作ってきた物語をひとまとめに文学と解し、その背後にある観念を体系立てたものだ。中でも私は自然主義文学についての考察が現代の若者文化にも通ずるところがあるのではないかと考えた。

 

そもそも伊藤整自然主義文学についてどう考えていたのだろうか

 

はたから見ると、滑稽で哀れで、人間性の弱い点がまざまざとはっきり見て取れる。(中略)この系統の小説を自然主義私小説というのである。ー伊藤整『改訂文学入門』講談社文芸文庫p117

「滑稽で哀れ」なものがこの系統に現れていることを簡単に確認してみよう。田山花袋著『蒲団』では、若い女学生に対し失恋した中年文士が悲しみに暮れながらその女学生の匂いのついた蒲団の香りを嗅ぐ場面で物語が終了する。島崎藤村著『破戒』で主人公は新平民の身分であり、親友含む周囲の人々の持つ差別意識に上辺だけ同調しつつ自身の身分を隠し通す。確かに「滑稽で哀れ」であることがわかる。引用を続ける。

 

これらのものは、文士が社会から離れて、文士の仲間だけの一種の荒々しい修行僧の団体のような特殊社会を形成して、その中にあってだれがより真実な生活をするか、だれがもっと本当のことを言うか、というような真実比べのような空気が文壇を支配していた。ー伊藤整『改訂文学入門』講談社文芸文庫p117

 

「滑稽で哀れ」なものが「真実比べ」のために論じられていたということである。つまりは不幸=真実として当時の文壇では認識されていたのである。しかし不幸であることは果たして真実なのだろうか。自然主義文学のように不幸を発信していく文化が現代の若者の中で現れている。それは「メンヘラ文化」である。南条あやの日記、また彼女の死に感化された若者が同じように自傷行為を行い精神科に駆け込む事態が発生したことは「けえかほおこく1」で確認したとおりである。当時よりネットが定着し東横界隈の成立(厳密には東横界隈→東横キッズへの対他存在の変化)、にゃるら氏原案の「ニーディーガール・オーバードーズ」の流行で、より自身の不幸な体験を表現することが普通となりつつある。しかし、この文化に傾倒する彼ら彼女らはその不幸が真実でないことを自覚している可能性が高い。以下「INTERNET YAMERO(インターネットやめろ)」の歌詞より引用。

 

本当は幸せを知っているのに不幸なフリやめられないね

 

筆者の周りには、自身の不幸を自己劇化の結果であることを述べているこの歌詞に共感を覚えた知人も少なくない。こういった界隈に影響を受けた者たちが不幸を語ることが文化として定着したように、自然主義文学もまた「滑稽で哀れ」なものを劇化し物語の中に落とし込むことを文壇の中の共通観念として成立させたのである。

 

彼らは「告白」をはじめた。しかしキリスト教であるがゆえに告白をはじめたのではない。たとえば、なぜいつも敗北者だけが告白し、支配者はしないのか。それは告白が、ねじまげられたもう一つの権力意志だからある。告白は決して悔悛ではない。告白は弱々しい構えの中で、「主体」たること、つまり支配することを狙っている。ー柄谷行人『定本日本近代文学の起源岩波現代文庫p121

 

柄谷行人自然主義文学に対し、不幸自慢を支配のための道具として使っていると述べている。ロマン主義自然主義耽美派の文学に肯定的な態度を取っていたものは夏目漱石森鴎外を高踏派・余裕派として非難した。メンヘラ界隈の者たちも自分たちの不幸に共感を示さないスクールカースト上位の者や大人たちを敵とみなす傾向がある。「不幸」をプラグマティックに考えてみると両者ともに「支配」のため(=真実を知るものとして議論のイニシアチブを取るため)の道具であるのだ。

 

なかなかに長文となってしまった。ここまでメンヘラについて些か否定的な解釈をしているなと感じた読者もいるだろう。しかし、これはメンヘラの一側面でしかない。今後別の視点からの考察も行っていくつもりであることを述べ結びとする。