躁×鬱

どうしようもないわたし

けえかほおこく3「近代最悪の発明」

 サブカル系に通じていると必ずぶつかるものが、「しらけ」の時代である。60〜70年代、政治闘争の敗北により無を特徴とするイデオロギーが若者の中で自然と涵養されてきた。その結果、全体主義的思考を捨て、他者の存在を前提としない個人主義的な文化が生まれ、それがサブカルと言われるようになった。その言葉には彼らの「俺らはみんなみたいに真面目ばっかじゃやっていけないんだぜ」といった、ひねくれた、程度によってはアナーキズムと解することもできるマジョリティへの反発があったのかもしれない。

 しかしながら現在のサブカルはどうだろうか。悲しいことに、個人主義的な側面はなく、界隈の中で狭苦しく過ごすしかないものになっている。あるブランドを持っていないといけないし、リスカの経験の有無も問われる、飲んだことのある向精神薬について語れなければならない。これのどこに個人主義が入り込む余地があるというのだ。私が思うに、このような窮屈なものを作り出したのは「アイデンティティ」のせいではないだろうか。本来自由だったはずのサブカルに、同一性が求められる。なるほど、ギデンズが唱えた近代の徹底にサブカルも毒されたのだ。界隈が求める決まった思想、知識に追いつくことができずに悩む姿は高野悦子「20歳の原点」にも見られる。本来自由に向かって花開いたものが、逆に縛りを生むのはなんとも皮肉である。

 

 いまやサブカルは、自分の同一性を固定し、承認欲求を満たすための道具に落ちぶれてしまっている。00年代、南条あやの死亡をきっかけに精神科の病院に若い女性が殺到した。しかし彼女らのほとんどは精神疾患などはもっていなかった。彼女らは「自分は精神疾患を持っている」=「サブカルに属する人間」だという診断が欲しかっただけなのである。そのために薬の過剰服薬やリストカットを繰り返す者が跡を絶たなく、当時は腕に切り傷のある女性は診断しない病院が多かった。それに対抗する形でサブカル界隈のネット掲示板には、自傷行為をしていても診てくれる、もしくはすぐに精神疾患の診断を出す病院は盛んに共有されていた。自身が健康体であることより、不健康であること(と周りに認められること)が重要視されたアイデンティティの呪いはおぞましいものである。

 

 岡田斗司夫の言葉を借りて締めよう。現代のサブカルには「自分の好きなものは自分で決める強烈な意思威力と知性」が消えた。私はこのような文化は唾棄すべきものだと思うし、その背後にあるアイデンティティを脱却した「独立人」が増えてくれることを願うばかりである。

けえかほおこく2 「スキーマの奴隷」

 現在私は大学のキャリアデザインという講義の期末レポートを作成している。いわゆる「意識高い系」を忌避していながらも友人から楽単だと教えられ履修を決めた次第である。このジャンルを嫌うのは私の持つスキーマによるものである。いわゆる「意識高い系」について、スキーマを用いて考えてみる。

 

 そもそも「意識高い系」がどのようなものであるかを決めるのも個々人の持つスキーマである。というのも他人から見た私は相対的には向上意識が高い堅物のように写っている可能性があるからである。

 私がよく知人に薦める本の中に『嫌われる勇気』『反応しない練習』がある。どちらも私の価値観に大きく影響を与えそれは中々に好転的であったと思う。しかしながら、これらの本はビジネスパーソン御用達であり、私をその中にくくっている友人もいるかも知れない。なぜそのようなことが起こりうるか?それは「自己啓発書」→「意識高い」というスキーマが社会通念上一般的になっているからであろう。

 

 しかしながら私にとってこれらの本は哲学的趣味以外の何物でもない。別に稼げるビジネスマンになることなど思考の隅にもない(というかそんな希望はない)。「嫌われる勇気」を例にあげよう。この本はアドラー心理学を軸に古代ギリシャ哲学で色付けを行っている。ー序盤で語られれいる「目的論」の議論はアドラー心理学アリストテレス哲学でかたられているが、詳細は省くーそもそも三大心理学者と呼ばれるフロイトユングアドラーが唱えた心理学はかなり思弁的であり、哲学的な領域である。中でもフロイトの影響は凄まじく、今日の我々が夢に対して感じる無意識の存在も彼の理論下にある。そもそもフロイト以前は無意識という観念は皆持ち得なかった。心理学と銘打っているが、心理を解釈するための哲学なのである。フロイトアドラーの違いは心理的倒錯を哲学的に考察した際、前者は性欲、後者は劣等感に依拠すると考えた点である。要するにこれらのジャンルの中でも哲学的趣味の延長線上で読むことは大いにあるというとである。

 

 『嫌われる勇気』が真面目な人間にも、私のような引きこもりニートにも感銘を与えることは、一つの本でも読み手によってその立ち位置は大きく変わるということである。ロラン・バルト『作者の死』、ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』でも同じようなことが言われている。結局は本の中身の意味内容ではなく、読み手の持つスキーマ次第であるということだ。つまり我々は外部の者に対して純粋に自由な意思決定を行うことはなく、スキーマの奴隷なのだというお話。

 

けえかほおこく1「拙劣な精神とアンビバレント」

 独りであること、未熟であること、これが本ブログの原点である。

 

 このブログは私が自慰的な告白を述べることで、インナーチャイルドを慰めようとするものだ。

 

 さて、本ブログのタイトルの「躁」×「鬱」であるが、これは本ブログのテーマを表象徴する2つの単語である。人は誰しもアンビバレンスを感じながら生きている。楽しさの絶頂にある中でも、不安の影が表象として私達の世界を脅かすことは珍しくない。その逆もまた然りで、不安で押しつぶされそうな時でも楽しいものは楽しい。そんな相反する形而上的体験について躁鬱を軸にしつつも、その他のテーマについても多元的に述べていこうとおもう。文章を書く能力に乏しいばかりでなく、語彙が鮮少であるため読みづらい文章になるがご承知おき願いたい。

 

 

 私がこのテーマで書いていこうと思ったきっかけは種田山頭火である。

「分け入っても分け入っても青い山」

ーー種田山頭火『草木塔』

 彼の作品の中で最も有名なものの一つである。走り続けても一向にゴールが見えないさまを表した見事な俳句である。一見ネガティブに捉えられるこの作品だが、注意深く鑑賞するとこの上ないバイタリティを感じる事ができる。というのも本当に絶望しているとしたら「分け入る」ことはなく立ち止まるはずである。希望が見えずとも走り続けている様子を表現したこの詩はまさしく【「躁」×「鬱」=アンビバレンス】というこのブログのテーマの濫觴なのである。

 

 

 さて、このブログ内の記事は「けえかほおこく」という題でナンバリングしていく。あまりにも有名な作品のパクリなので説明なんていらないと思われる方も少なくはないかもしれないが紹介させていただく。なんとも頭の悪そうなこのタイトルはダニエル・キイスの有名なSF小説アルジャーノンに花束を早川書房 小尾芙佐訳)」の主人公・チャーリーの作成した手記からとっている。この作品のあらすじとしては知能が低いが知識欲のあるチャーリーが「しじつ(手術)」によって知能を高めていく、、といったところだろうか。知能が低い主人公の言語能力を、漢字を使わないことによって表現した名訳である。

 

 私自身の持つ特性はチャーリーとアナロジーを見出すことが容易であった。私自身も対して知能は高くなく、学問的な発達・情緒的な発達がかなり拙劣なまま成長してしまった。しかし、衒学的ナルシズムは捨てることができず大して身にならない学びを繰り返す日々を送っている。現実を直視しないインナーチャイルドに支配されているのである。チャーリーは知能が発達するに連れ語彙が高まり「けえかほおこく」から「経過報告」と書き方に変遷が見られるが、私自身はいつまでも未熟である。そんな私自身を自虐的したタイトルとしての「けえかほうこく」なのだ。

 

 自慰的な作品紹介を終えたところで「けえかほうこく1」は終わりとさせていただく。今後も私が鑑賞・消費している作品について述べていけたらと思う。先にも述べたが、多元的に書いていこうと考えているので様々なジャンルで書いていくことになるだろう。読者諸君の琴線に触れる記事が一つでも生み出せるのならば、私のインナーチャイルドも本望なのかもしれない。