躁×鬱

どうしようもないわたし

けえかほおこく2 「スキーマの奴隷」

 現在私は大学のキャリアデザインという講義の期末レポートを作成している。いわゆる「意識高い系」を忌避していながらも友人から楽単だと教えられ履修を決めた次第である。このジャンルを嫌うのは私の持つスキーマによるものである。いわゆる「意識高い系」について、スキーマを用いて考えてみる。

 

 そもそも「意識高い系」がどのようなものであるかを決めるのも個々人の持つスキーマである。というのも他人から見た私は相対的には向上意識が高い堅物のように写っている可能性があるからである。

 私がよく知人に薦める本の中に『嫌われる勇気』『反応しない練習』がある。どちらも私の価値観に大きく影響を与えそれは中々に好転的であったと思う。しかしながら、これらの本はビジネスパーソン御用達であり、私をその中にくくっている友人もいるかも知れない。なぜそのようなことが起こりうるか?それは「自己啓発書」→「意識高い」というスキーマが社会通念上一般的になっているからであろう。

 

 しかしながら私にとってこれらの本は哲学的趣味以外の何物でもない。別に稼げるビジネスマンになることなど思考の隅にもない(というかそんな希望はない)。「嫌われる勇気」を例にあげよう。この本はアドラー心理学を軸に古代ギリシャ哲学で色付けを行っている。ー序盤で語られれいる「目的論」の議論はアドラー心理学アリストテレス哲学でかたられているが、詳細は省くーそもそも三大心理学者と呼ばれるフロイトユングアドラーが唱えた心理学はかなり思弁的であり、哲学的な領域である。中でもフロイトの影響は凄まじく、今日の我々が夢に対して感じる無意識の存在も彼の理論下にある。そもそもフロイト以前は無意識という観念は皆持ち得なかった。心理学と銘打っているが、心理を解釈するための哲学なのである。フロイトアドラーの違いは心理的倒錯を哲学的に考察した際、前者は性欲、後者は劣等感に依拠すると考えた点である。要するにこれらのジャンルの中でも哲学的趣味の延長線上で読むことは大いにあるというとである。

 

 『嫌われる勇気』が真面目な人間にも、私のような引きこもりニートにも感銘を与えることは、一つの本でも読み手によってその立ち位置は大きく変わるということである。ロラン・バルト『作者の死』、ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』でも同じようなことが言われている。結局は本の中身の意味内容ではなく、読み手の持つスキーマ次第であるということだ。つまり我々は外部の者に対して純粋に自由な意思決定を行うことはなく、スキーマの奴隷なのだというお話。