躁×鬱

どうしようもないわたし

鑑賞記録ー漫画『亜人』

 試しに読んだ漫画について、寡聞ながらに鑑賞記録をつけてみようと思う。

 

 一回目は桜井画門先生の『亜人』(全17巻)である。ストーリーが展開する速度がとても早く退屈することなく2日で読み終えてしまった。

 

あらすじ

 まずはタイトルにもある「亜人」について説明する必要があるだろう。「亜人」とは、死んでも復活する人間である。正確には死ぬと健康体で復活する。また亜人は死ぬまでは自分でも気づかずに普通の人間として生活をしている。血縁は関係なく、個人が突然変異的に亜人になるのだ。

 加えてあらすじを語る前に前提として、この世界で亜人は未知の研究対象として非人道的な実験の被験者にされてしまうという都市伝説がまことしやかに囁かれており、それは実際に行われている。

 

 さて、本作の主人公は高校生の永井圭である。ある日彼は交通事故に巻き込まれてしまう。一度死んだはずが復活したことで自分が亜人であることを悟った彼は非人道的な実験を恐れ逃亡をする。

 

 本作品は大きく2つの展開に分けられる。序盤は先程にも述べた通りの逃走劇である。中盤からラストにかけてはある人物の思惑を止めることに終始する。

 その人物とは漫画史に残る名悪役として名高い「佐藤」である。永井は逃亡の最中に佐藤という亜人が国家転覆を狙っていることを知る。永井は佐藤の活動のせいで亜人が必要以上に恐れられているとし、平凡な生活を送るためにも彼の活動を止めようとする。これが本作の最終的なゴールになるのだ。

 

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死後復活する永井圭

 

 

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日本政府を乗っ取ろうとする佐藤


 

戦略的自殺

 今作の魅力の中で最も幅を聞かせているのは戦闘描写だろう。亜人死ぬと復活するという原則がこの作品ならではの戦闘を我々に見せてくれる。

 わかりやすいのは、亜人を無力化するためには気絶させるしかない」ということだろう。亜人たちは死ぬと復活するので、あの手この手で自殺する方法を準備して戦いに望むのである。それらを封じ麻酔銃などで意識を奪うことが対亜人の基本戦術である。また気絶させられても仲間に殺してもらうことで戦闘を再開することもできるため、通常の人間サイドは目の前の亜人の対処だけでなく、より大局的な視点で戦闘を行うことを強いられる。

 もちろん通常の人間は殺してしまえば無力化できるので、亜人たち(特に佐藤とその仲間)は殺傷能力に長けた武器を扱う場面が多い。これらの武器は敵を無力化するだけでなく、自殺を成功させ復活するためのエリクサー的役割を果たしているのが面白い。

 

名悪役ー佐藤

 名作には読者を引き付けるキャラクターが必須である。本作品は終始悪役を務める佐藤が読者の感心を引き付けてやまない。彼の行動原理が最高に面白いサイコパスなのである。

 あらすじで佐藤は反政府活動を行っていると述べたが、彼がそういった活動をするのはなにか大義があるわけではない。ただの暇つぶしで、「日本の政治権力を支配する」という大きなラスボスに挑むゲームという認識なのである。

 

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参加するはずのない戦闘にいきなり登場する佐藤。「楽しそう」だから参戦。

 

 

 ゲーム感覚で国家転覆を目指すだけでも相当だが、亜人の特徴を生かした作戦を次々と実行していく過程で自分を傷つけることも厭わないのも彼の魅力だ。永井や読者が思いもよらない方法を次々と実行し着実に目的へと向かう狂気が彼にはある。

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作戦のために躊躇なく腕を切り落とす佐藤。これ以外にも腕を切り落とす場面は多い。

 

 

提示しきれなかったヴェール

 亜人の設定をいかんなく発揮し唯一無二の作品に仕上がっている本作品だが、一つだけ活かしきれていない設定があると私は考えている。それは「亜人は死んで復活するまで自覚すらできない」という設定である。

 

 この設定により誰が亜人なのかが分からないサスペンス要素が最序盤にはあった。序盤で永井以外の意外な人物が実は亜人だったことが判明する場面は誰も気づいていないだけで亜人が他にも潜んでいることを期待させ、読者は考察をせずにいられなくなる。ワンピースがそうであるように、考察要素は作品の魅力を押し上げる。もっとも誰が亜人か分からないというフォーマットを天丼してもつまらない。そこで、正真正銘亜人ではない人物たちが亜人と疑われてしまう欺瞞合戦の描写があっても良かったのではないかと思う。亜人だということにされたら実験動物にされ廃人として再起不能になるのでそれを恐れた人間たちの心理戦を描くこともできただろう。

 

 少しネタバレになるが佐藤の作戦が遂行されるに連れて政府は危機感を募らせ、亜人の人権を無視しても良いとする法律が施行される。亜人は死ぬまで自分ですら気づかないのにこのような法律が難なく議会を通ってしまったことは違和感だ。

 

 ロールズという政治哲学者が提唱した思考実験に「無知のヴェール」というものがある。このヴェールをかぶると自分の名前や家族、社会的身分などの一切を忘れてしまう。ヴェールを外した時の自分は億万長者かもしれないし貧困にあえいでいるかもしれない。若しくは五体満足でないかもしれない。皆がそんな状況下で選択したこと、決められた法律が真に平等なのではないか、といったことを考えさせる思考実験だ。

 

 死ぬまで自分が亜人かどうかわからないといった状況はリアル無知のヴェールである。もしかしたら自分も亜人かもしれない可能性があるのにあっさり亜人の人権が剥奪されたのは浅いなと感じてしまう。

 

おわりに

 細々と書いてきたがこの作品は深く考察するのではなく一気に読んでしまうことをおすすめする。決して浅い作品ではないと思うのだが、この漫画はかなり自転車操業的に作成されていたため細かいところ、特に主人公である永井圭の性格に関しては一貫性がなく理解し難いところが多々ある。桜井先生もそれに気づいていたのか、合間合間で挟まる回想シーンで永井の性格に影響したと思われる後付けのようなエピソードが挟まれる。一気読みしてしまえばそのような部分も気にならないだろう。実際私は気にならなかった。

 

 終盤では佐藤が日本の中枢をどんどん壊滅させていく。わずか17巻なのもあり、展開の速さも今作品の魅力なので読むときは頭空っぽで一気に読んでしまおう。

 

 

 

ひとりごと

自分の能力は、普段関わっている人の平均値だって言う。僕はどう考えても第一四分位数よりも低い。

 

惚れてもいない女に公衆トイレでフェラしてもらった。自己嫌悪とちょっぴりの愛情を精液と一緒に放出できた気がする。

 

久しぶりに柔軟運動をしたら以前より固くなっていて、継続していた時期はちゃんと成果が出ていたんだと気づいた。

 

不幸な女の子としか仲良くなれない。アファーマティブな対応が必要な子なのに僕は何の力にもなれない。なろうともしていない。

 

一緒にできるゲームがあればいいねって始めたツムツムを未だに一人でやっている。

 

 

プロポ「自己責任」

 言葉の解釈が他人と違うなと感じることが多々ある。「他力本願」ってそんなに悪いことなのか?これって元々鎌倉時代の仏教の考え方で、大衆に受け入れられたはずなのに、なんで悪いことのようになっているんだろう。自分の限界値を受け入れて、それを埋めるために他者を必要とするって悪いどころかものすごく健全なのではないだろうか。

 

 リチャード・ローティーはみんなが連帯するために共通言語という概念を提唱した。簡単に言うなら、本来の言葉の意味より連帯する仲間内で通用する意味を重要視しようって感じ。この共通言語に「他力本願」を持ち込みたい。一人で自滅するくらいなら僕のことを頼ってほしいと思うし、逆にもっと周りの人のことを頼りたい。一般的に悪いとみなされれいる「他力本願」の語彙を、僕の身内では良い意味として使いたい。

 

 日本人がみんな宗教を信じていることが当たり前になったらと思う。自分の小ささを自覚して、もっと神様に頼ればいいのに。そうすれば自分ひとりで抱え込もうとする人も減るんじゃないだろうか。自力で何でもしようとするから病んだ人は自分のことを傷つけて解決しようとする。もっと他者を傷つけても許されるべきだ。

 

 メンヘラを1つの文化にした南条あやはちゃんとした自己愛を持っていたし、その自己愛を持ってして自分一人では何もできないことをわかっていたから大衆に自分の考えていることを訴えていたんだよ。彼女の真似事だけして本質を理解していない人ばっか。隠れてやる自傷行為南条あやのマネをしているようで全然そんなことない。メンヘラたちで共通言語を作るための材料にしかなっていない。自己責任論を加速させる共通言語なんてなくなってしまえ。

 

 

 

 

 

読書記録3『読んでいない本について堂々と語る方法』

 全く更新をしていないが、決して本を読んでいないわけではない。しかし、あまりにも読んでいない本が多すぎることによる後ろめたさが足を引っ張り、読んだ本について十分に語る自信がなかった。その本について語るためには、その本についての解像度を上げる別の本を読み、それらすべての本について語らなければならないと考えていたからである。

 

 本棚を眺めていると、こんな私にぴったりな本があった。ピエール・バイヤール著、大浦康介訳『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫)だ。読書量の少なさが、「本について語らないこと」に繋がらないことを過去の自分は学んだはずだった。この本を読んだのは随分前だが、これからの本への向き合い方を考えるため、この本の内容の回想を試みる。

 

 

 この本の大前提としてあるのが「本について語ることは不可能である」という命題である。本のタイトルと矛盾しているように思えるが、この考え方がなかなかに面白い。

 

 

 本書では、ある人類学者がアフリカの民族ティヴ族に『ハムレット』を語って聞かせた際のエピソードが紹介されている。『ハムレット』は、三人の哨の前に亡き先王ハムレットの亡霊が出現するところから始まるのだが、ティヴ族はこの場面が全く理解できないというのである。これは一体なぜなのか。ティヴ族には亡霊という概念はなく、死んだものが姿を表すことが想像できないためである。

 

 『ハムレット』について語る際、我々は亡霊の存在を受け入れ先王と王子ハムレットの親子愛について問題なく語ることができるが、亡霊の概念を持ち合わせないものは突如現れた先王の正体についてあれこれ考察を語り合うことになる。このエピソードから分かるのは、本について語ることは我々の観念体型を通してからのみ行われるということである。

 これ以外にも『ハムレット』を読んだ際の、ティヴ族と我々の間にあるズレが本書の中では紹介されているがここではこの一例にとどめておく。

 

 本について語るということが観念体型に依拠するということは、読んでいない本について語ることのできる可能性を我々に示してくれる。

教養ある、好奇心旺盛な人間なら、本を開く前から、タイトルやカバーにちょっと目をやるだけで、さまざまなイメージや印象が沸き起こるはずである。そしてそれらのイメージや印象は、一般的教養がもたらす書物全般についての知識に助けられて、その本についての最初の見解に変わるだろう。ーピエール・バイヤール著大浦康介訳『読んでいない本について堂々と語る方法』ちくま学芸文庫p36

 我々の観念体型を構成する教養によって本について語ることが可能になり、いわんや読んでいない本についてもである。

 

 

 驚くべきことにこの本の中で引用される数々の本は、筆者が読んでいない本である。筆者は、読んでいない本について堂々と語り『読んでいない本について堂々と語る方法』を書き上げたのである。このことを可能にしたのは筆者の教養である。

 

 同じようなことを私も過去に行った。前回の読書記録で引用した柄谷行人の書籍は一冊も読んだことがないのである。彼の文学評論が日本文学においてどういった立ち位置にあるのかを理解するだけの教養が私にあり、その教養を元に語ることができたのである。

 

 

 では、教養を完成させないと語ることができないのか。もしそうなのであれば私は今後も自身の寡聞さに恐縮し永遠にブログの更新をすることはできないだろう。読んでいない本について語ることはできないままである。バイヤールはこのような問題を解決するべく、この本の最後に読んでいない本について語る際の心構えを示してくれている。

読んでいない本について(中略)話したければ、欠陥なき教養という重苦しいイメージから自分を開放するべきである。ーピエール・バイヤール著大浦康介訳『読んでいない本について堂々と語る方法』ちくま学芸文庫p200

 心構えの章の小タイトルは以下の4つである。「気後れしない」「自分の考えを押し付ける」「自分をでっち上げる」「自分自身について語る」。先の引用と、このタイトルから私は次のように解釈した。本について語る際に教養は必須だが、その教養に終わりはないのだから現状追認をし、暫定的な自己語りで帰着せよ、、と。

 

 

 最初に確認したが本そのものについて語ることは不可能で、我々が本について語っていると思いこんでいる行為は観念体型を通じて語っているに過ぎないのであった。観念というのは人それぞれ違ったものを持っている。それならば、本について語ることは今の私自身の観念を語ること、自分語りをすることと同義なのだ。下手に教養を身に着けてから語ろうとするのではなく、その時の私が持ちうる教養・観念・人格諸々を動員して語っていくことは何も悪くはないのだから、もっと本を読んだときの考察を書いていけたらと思う。

 

 

 

 

読書記録2 伊藤整『文学入門』(&メンヘラ文化に対する考察)

 

 前回書いた通り、大して理解もしていない書籍の読書記録を記してみる。

 今回は講談社文芸文庫出版、伊藤整の『改訂文学入門』である。戦前の文学について学べる書籍の中では知名度・評価ともに群を抜いているのではないだろうか。

 伊藤整はD・Hローレンス著『チャタレイ夫人の恋人』を翻訳し猥褻物頒布罪に問われたことが有名で澁澤龍彦との共通性を感じる人も多いだろう。しかし、澁澤龍彦は美学・哲学の観点から性の悪徳を論じたのに対し、今回の話題である伊藤整は文学乃至文学が積み上げてきた思想に重きを置き文学書評をしてきた側面がある。

 

 さて、本書籍は神話から戦前の文学まで、人類が作ってきた物語をひとまとめに文学と解し、その背後にある観念を体系立てたものだ。中でも私は自然主義文学についての考察が現代の若者文化にも通ずるところがあるのではないかと考えた。

 

そもそも伊藤整自然主義文学についてどう考えていたのだろうか

 

はたから見ると、滑稽で哀れで、人間性の弱い点がまざまざとはっきり見て取れる。(中略)この系統の小説を自然主義私小説というのである。ー伊藤整『改訂文学入門』講談社文芸文庫p117

「滑稽で哀れ」なものがこの系統に現れていることを簡単に確認してみよう。田山花袋著『蒲団』では、若い女学生に対し失恋した中年文士が悲しみに暮れながらその女学生の匂いのついた蒲団の香りを嗅ぐ場面で物語が終了する。島崎藤村著『破戒』で主人公は新平民の身分であり、親友含む周囲の人々の持つ差別意識に上辺だけ同調しつつ自身の身分を隠し通す。確かに「滑稽で哀れ」であることがわかる。引用を続ける。

 

これらのものは、文士が社会から離れて、文士の仲間だけの一種の荒々しい修行僧の団体のような特殊社会を形成して、その中にあってだれがより真実な生活をするか、だれがもっと本当のことを言うか、というような真実比べのような空気が文壇を支配していた。ー伊藤整『改訂文学入門』講談社文芸文庫p117

 

「滑稽で哀れ」なものが「真実比べ」のために論じられていたということである。つまりは不幸=真実として当時の文壇では認識されていたのである。しかし不幸であることは果たして真実なのだろうか。自然主義文学のように不幸を発信していく文化が現代の若者の中で現れている。それは「メンヘラ文化」である。南条あやの日記、また彼女の死に感化された若者が同じように自傷行為を行い精神科に駆け込む事態が発生したことは「けえかほおこく1」で確認したとおりである。当時よりネットが定着し東横界隈の成立(厳密には東横界隈→東横キッズへの対他存在の変化)、にゃるら氏原案の「ニーディーガール・オーバードーズ」の流行で、より自身の不幸な体験を表現することが普通となりつつある。しかし、この文化に傾倒する彼ら彼女らはその不幸が真実でないことを自覚している可能性が高い。以下「INTERNET YAMERO(インターネットやめろ)」の歌詞より引用。

 

本当は幸せを知っているのに不幸なフリやめられないね

 

筆者の周りには、自身の不幸を自己劇化の結果であることを述べているこの歌詞に共感を覚えた知人も少なくない。こういった界隈に影響を受けた者たちが不幸を語ることが文化として定着したように、自然主義文学もまた「滑稽で哀れ」なものを劇化し物語の中に落とし込むことを文壇の中の共通観念として成立させたのである。

 

彼らは「告白」をはじめた。しかしキリスト教であるがゆえに告白をはじめたのではない。たとえば、なぜいつも敗北者だけが告白し、支配者はしないのか。それは告白が、ねじまげられたもう一つの権力意志だからある。告白は決して悔悛ではない。告白は弱々しい構えの中で、「主体」たること、つまり支配することを狙っている。ー柄谷行人『定本日本近代文学の起源岩波現代文庫p121

 

柄谷行人自然主義文学に対し、不幸自慢を支配のための道具として使っていると述べている。ロマン主義自然主義耽美派の文学に肯定的な態度を取っていたものは夏目漱石森鴎外を高踏派・余裕派として非難した。メンヘラ界隈の者たちも自分たちの不幸に共感を示さないスクールカースト上位の者や大人たちを敵とみなす傾向がある。「不幸」をプラグマティックに考えてみると両者ともに「支配」のため(=真実を知るものとして議論のイニシアチブを取るため)の道具であるのだ。

 

なかなかに長文となってしまった。ここまでメンヘラについて些か否定的な解釈をしているなと感じた読者もいるだろう。しかし、これはメンヘラの一側面でしかない。今後別の視点からの考察も行っていくつもりであることを述べ結びとする。

けえかほおこく4「けえかほおこくの意義」

 4ヶ月このブログを更新していなかった。しかしこのブログに書こうと思う話題は次々と湧き上がっていたのである。なぜ更新しなかったかというとまだ身につけていない知識・読んでいない本がある状態で自身の考えを吐露することに抵抗があったからである。

 

 なぜいきなりこのような記事を書き始めたかというと、自分が未熟だからといってアウトプットを避けるのは本ブログのタイトルの趣旨と矛盾していたことに気づいたためである。「けえかほおこく」というタイトルは私が未熟で低知能であることを自虐的に受容した上で書いていくことを示していた。つまり、知識が足りない・本を読んでいないとしても書いていくことが本来の姿出会ったはずなのである。

 

 以下に読んでいない本をリスト化する。こんなに読んでいない本があるにも関わらず思考し言語化していたことを後々になって自分で見返せるようにするためである。

随時追加・削除

 

夏目漱石三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『吾輩は猫である』『私の個人主義

田山花袋『布団』

志賀直哉『暗夜行路』

マイケル・サンデル『これからの正義の話しをしよう』『実力の運のうち』

リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子

ベンジャミン・リベット『マインドタイム』

・ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン』

・ジョン・ブラッドショーインナーチャイルド

川端康成『雪国』

宮沢賢治春と修羅

中村光夫『日本の近代小説』

後日追加

読書記録1 「石の思ひ」

 この頃自分の考えを どこかに著したい衝動がひどい。要は自分語りがしたいのだ。こんな考えも3日坊主で終わる気もしながら、読んだ本についてただ感想を述べていく試みをしてみる。

 

 本日読んだのは坂口安吾の『石の思ひ』である。石とは中国古典の『紅楼夢』から来ているらしい。しかし、私はこの作品について何一つ知らないのでかなりの誤読をしている可能性が高い。まぁ、私は作者主体の読書を否定している立場なので気にしていないのだが、正しい解釈を求める読者にとっては詭弁にしか思えないであろうことを付しておく。

 

 さて、この本は坂口安吾が自身の少年時代を描いた短編小説である。主に家族関係の中で育まれた切なさ・悲しみについて述べられている。父からの無関心、母からの憎しみを受けて育った幼少期を振り返り、自分と父との対比と母との和解を通じて自分と実家との関わりについて作者の考えが綴られている。なかなかに過酷で現代の私達では想像し難い家族像ではあるが、巧みな言語感覚によってそれらが生んだ情緒を私達に届けてくれている。

 

 まず父との対比だが、この点に関しては「悲しみ」という言葉が意識されている。

私は六ツの年にもう幼稚園をサボって遊んでいて道が分らなくなり道を当てどなくさまよっていたことがあった。

 この体験によって生じたものが坂口にとっての「悲しみ」であり、その「悲しみ」を生涯背負ってきた自分と、成長過程で捨て去ってしまった父との対比が成り立っている。この「悲しみ」とは、カオスを求めてしまい不安定なものを求めてしまうが、それに飲み込まれながら生きる能力を持たないアンビバレンスによって生まれるものなのだと私は思う。坂口の父は、この「悲しみ」を捨て去った故に息子に対し無関心を貫き、自分の世界に閉じこもってしまった。カオスをもたらす他者とのつながりを断ち切ったのである。

 また、この「悲しみ」は、「自己破壊」の快楽と密接に関わっているのではないだろうか。カオスというのは自分を破壊しうる存在である。そんなカオスを求める=自己破壊を求めるのが坂口安吾であり、カオスの排除=自己破壊を防ぎたいのが父である。私は自己破壊を求めるものである。自分がなにか失敗したり、他者から拒絶を受けると安心感をいだき、逆に他者から受け入れられたり、なにか成功体験をしてしまうとこんなのは自分でないと不安にかられる。そういった意味では私は「悲しみ」を持っているのかもしれない。

 

 最後に母との和解についてである。

母と私はやがて二十年をすぎてのち、家族のうちで最も親しい母と子に変ったのだ。私が母の立場に理解を持ちうる年齢に達したとき、母は私の気質を理解した。

 幼少期は母から虐待を受けていた坂口が大人になったことで母の抱える事情を理解し、晴れて母と仲良くなれたというなんとも穆穆とした話である。これに対し私は、虐待をしていた母との和解は無理なものだと決めつけていた。しかし、母との対話から逃げている自分に気がつくことができた。まぁ、フロイトラカン精神分析に照らし合わせてみれば、坂口は「去勢」された根本を理解することができたが、私の場合はそれがない。いや、「去勢」の原因を母との対話で明らかにすればよいのかもしれないが、そんな気力はないなぁ。。。

 

まとめ後日削除